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  • 都市計画と集合住宅のレジェンドとして知られる、ドイツの建築家がいます。
    ブルーノ・タウト。
    彼はヒトラーの台頭に危機を感じ、建築家仲間の知己を頼って、日本にやってきました。
    京都、仙台などに滞在したあと、1934年8月、群馬県高崎市のある小さな住まいに移ります。
    それが、少林山達磨寺の、心を洗うと書く「洗心亭」。
    滞在は予定を上回り、2年3か月もの間、日本での暮らしを堪能しました。
    彼がそのときの様子を記した日記や絵は、1930年代の日本を映す貴重な資料として、今も大切に保管されています。
    洗心亭は、6畳と4畳半、二間の質素な平屋。
    しかし、入ったその日に、タウトはここが気に入りました。
    建物を取り囲む、豊かな自然。木々のざわめき、鳥の声。
    障子から差し込む陽の光に、わびさびを見出す。
    もともと日本文化に傾倒していた彼にとって、そこは、楽園だったのです。
    日本にいる間、思うように建築家としての仕事はできませんでした。
    たまに設計の発注があっても、西洋風で斬新な建築を望まれ、いかにも日本風のデザインを推し進める彼との間に、深い齟齬が生まれてしまいます。
    それでもタウトは、洗心亭での暮らしだけで、十分、幸せでした。
    日々のうつろいを、丁寧に楽しむ生活。
    彼が建築で最も大切にしたものは、「つり合い」でした。
    建物自体のつり合い。まわりの環境とのつり合い。そこに暮らす人間とのつり合い。
    人生も、決して独善的であってはならない。
    必ず、一緒にいるまわりの人との「つり合い」の中で、生きていく。
    日本人が忘れていた「日本的な美」を提唱した、唯一無二の建築家・ブルーノ・タウトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 群馬県の伊香保温泉でこの世を去った、明治・大正期の文豪がいます。
    徳冨蘆花(とくとみ・ろか)。
    幼少期より病弱だった蘆花は、自分の心や体の変調に敏感でした。
    破天荒で自由人。時にわがまま、傍若無人。
    でも、こよなく自然を愛し、体を整えるために旅を好み、しばしば、伊香保温泉を訪れていました。
    自分に海が必要とあらば、神奈川の逗子で暮らし、山間を欲すれば、伊香保におもむく。
    そして晩年、妻と農業をやりながら住んだ地は、東京、千歳村粕谷。
    現在の世田谷区、蘆花公園です。
    彼の名がついた庭園には、今も旧宅が保存され、緑豊かな自然が残っています。
    徳冨蘆花の名を世に知らしめたのは、明治31年11月29日から国民新聞に連載された小説でした。
    題名は『不如帰(ほととぎす)』。
    主人公、浪子は、実家の継母に苛められ、嫁いだ先の姑に苦しめられ、やがて夫は日清戦争に出征。
    ひとりになった彼女は結核となってこの世を去る、というストーリー。
    流行の兆しがあった家庭小説というジャンル、そして、女性の苦悩をひたすら描いた斬新さと、結核という当時の感染症のリアルな描写に、読者は次号を待ち望みました。
    この小説は、「あ丶辛い! 辛い! ――最早(もう)婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。」という流行語を生みました。
    さらに、夫の出征を見送るシーンで、浪子がハンカチを振ったことを受け、「別れ」に「ハンカチを振る」ことがスタンダードになったと言われています。
    蘆花は、逗子にいた頃、ある女性から聞いた逸話を、『不如帰』という小説に脚色したと、自ら認めています。
    彼は生前、よく知人に話していました。
    「私は、見たこと、聞いたこと、感じたことしか、書けない」
    ゼロから想像して書くひとを決して否定はしませんでしたが、自分の流儀は、あくまで、自然主義。
    この世を美化しない。ファンタジーでごまかさない。
    そのことで周りとの軋轢を深め、時に誹謗中傷を受けましたが、彼は終生、己の主義を貫いたのです。
    あえて茨の道を選んだ作家、徳冨蘆花が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

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  • 群馬県立近代美術館にその絵が所蔵されている、江戸時代の大人気・絵師がいます。
    円山応挙(まるやま・おうきょ)。
    応挙と言えば、先月、新たな発見を、ネットや新聞が大きく報じました。
    それは、絵師として人気を争った、かの伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)との初の合作屏風が見つかったのです。
    若冲と応挙、それぞれが得意とした題材を描いた、初の合作屏風。
    これは「驚くべき発見です!」と美術史家で、明治学院大学教授の山下裕二(やました・ゆうじ)さんは語ります。
    左の屏風、左隻は若冲が鶏を、右の屏風、右隻は応挙が鯉を描きました。
    発注者が別々にお題を与え、依頼したものだと思われますが、当時、人気を二分していた二人にとっては、まさに競作、競い合った、稀有な一品です。
    この作品は、来年6月21日から8月31日まで大阪中之島美術館で開催の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」で公開されます。
    京都のひとに、いまだに「応挙さん」と親しみを込めて呼ばれる、唯一無二の画家、円山応挙。
    彼は当時としては珍しく、どの流派にも属さず、生涯仕えた師匠もいませんでした。
    室町から400年続く狩野派の勢いは止まらず、中国の絵画の影響も大きかったその時代に、なぜ、彼は独学で成功を収めることができたのでしょうか。
    貧しい農家に生まれ、10代で奉公に出てから30代前半まで、ひたすら食べるために働き、絵師として生計が立てられることなど、夢のまた夢。
    ただ、好きな絵だけは、画き続けました。
    しかも彼が大切にしたのは、目の前のものを正確に画く技術。
    愚直なまでに、今、見えるものを忠実にとらえる心。
    破天荒で芸術家気質のライバルたちと違い、ひたすら真面目に生きることで、彼はチャンスを得たのです。
    観るものを没入させる江戸時代の天才画家、円山応挙が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 明治時代、欧米化の波にのまれそうになる日本人に、いかに生きるべきかを示した思想家のレジェンドがいます。
    内村鑑三(うちむら・かんぞう)。
    その名は聞いたことがあっても、いったい何をした人なのか、どんな思想を持っていたのか、明確に答えられる人は、案外、少ないのかもしれません。
    それもそのはず、内村の生き方、思想は、混乱、混迷の連続。
    札幌農学校時代に、キリスト教の洗礼を受けますが、アメリカに留学した際、キリスト教の在り方に疑問を持ち、反感を買う。
    愛国心が人一倍ありながら、教育勅語の前で最敬礼をしなかったことが、社会的な大事件に発展。
    どこにいても敵をつくり、どんな組織に入っても周りと齟齬(そご)を深め、退職、辞任、解雇。
    転がる石のごとく、流され、ぶつかり、ひとつの場所に留まることができない、70年あまりの生涯でした。
    群馬県の高崎藩士の息子として生まれた彼は、少年時代の一時を高崎で過ごします。
    自然豊かな森や山、そして川。
    特に渓流に足をつけ、川魚を見るのが好きでした。
    素早く動く、美しい魚たち。
    ある法則性がありそうで、自由で、シンプル。
    内村少年は、そこで初めて、命がどこから来て、どこへ去っていくのか、想いを巡らせます。
    数々の試練を経て、彼が思い至った結論は、「天地の理(ことわり)」と共に生きるということ。
    ひとは、自分の価値観で生きる。
    しかし、ともすれば自らの価値観にがんじがらめになって、身動きがとれなくなる。
    そんなとき、視点をふわっと宙に放ち、天に預ける。
    人間には誰しも、天が定めた仕事がある。
    それを全うすること。
    それこそ、命をいただいたことに対する恩返しではないか。
    内村は、その考えを、二つのJから学んだのです。
    ひとつが、ジーザス、キリストのJ。
    もうひとつが、JAPAN、ニッポンのJ。
    批判、非難、誹謗中傷の嵐の中、天命を全うした賢人、内村鑑三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 1966年6月30日から7月2日までの3日間、日本武道館で初めてロックのコンサートを開催した、伝説のアーティストがいます。
    ザ・ビートルズ。
    生で演奏する彼らを見ることができた、最初で最後の公演。
    実現に至るまで、多くの苦難がありました。
    神聖な武道を行うための場所で、キャーキャーと黄色い声が飛び交うコンサートなど、ありえない。
    日本武道館初代会長の正力松太郎(しょうりき・まつたろう)は、「ペートルスとかなんとかいうやつに、武道館は使わせない!」と豪語したと言われています。
    今でこそ、若いアーティストの憧れの演奏場所であり、ポップ・ミュージックのコンサートが頻繁に開催されていますが、当時は、一度クラシックのコンサートが開かれたくらいで、柔道や剣道、公的な行事以外の使用はほとんどありませんでした。
    しかし主催者側は、世界を席巻していたイギリスのロック・バンドの日本公演は、この国を象徴する会場で行いたいと必死だったのです。
    正力会長はなんとか説得できたものの、ビートルズの武道館公演に反対する勢力は激化していきます。
    街宣車に、脅迫電話。
    大規模な警備体制が求められ、1万人の観客に対し、配備された警察官は3000人。
    観客が近づけないように、アリーナ席は撤去。
    厳戒態勢の中、彼ら4人は、日航機のタラップを降りました。
    こうしておよそ100時間の彼らの滞在時間がスタートしたのです。
    ビートルズは、この年の8月にコンサート活動をいっさいやらないことを決めます。
    彼らは、表現の場をレコードに移し、破格の挑戦を続けるのです。
    1962年にデビュー、そして1970年に解散。
    わずか8年あまりの活動で、今なお世界中の人々を魅了する、ロック・バンドのレジェンド、ザ・ビートルズが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 日本武道館の設計を任された、建築界のレジェンドがいます。
    山田守(やまだ・まもる)。
    1964年に開催された東京オリンピックの、柔道会場として建設された日本武道館。
    皇居北の丸の北部、およそ1万平方メートル、延面積2万8千平方メートル、収容観客数、およそ1万人。
    当時の金額で、総工費20億円。
    日本の伝統、お家芸を世界中に知らしめる、壮大なプロジェクトでしたが、設計コンペが行われたのは、前年の夏のことでした。
    早急な図面づくりに、短い工期。
    指名されたにもかかわらず、コンペを辞退する設計士もいました。
    そんな中、山田は、コンペに参加し、勝ち抜いたのです。

    彼の構想には、明確な二つのモチーフがありました。
    ひとつは、聖徳太子が祀られていると言われる、法隆寺夢殿。
    八角形は、古代中国からの風水に習うもの。
    「8」は、仏陀誕生の日付であり、聖なる数字として大切にされてきました。
    さらに限りなく円に近いフォルムの美しさを、山田は好んでいたのです。
    彼がイメージしたもうひとつのモチーフ。
    それは、富士山。
    彼は富士山の裾野の曲線を、最高の「美」と捉えていました。
    スタッフの前で、製図版に向き合う、山田。
    彼は数値でも定規でもなく、フリーハンドで曲線を描きました。
    何度も何度も、自分がこれだと思う曲線が画けるまで、やりなおす。
    やがて、納得できる曲線が引けたとき、ようやく数値を計算。
    図面が形になっていくのです。
    しかし、翌朝、その図面を見ると、やっぱり何かが違うと、また、曲線を描く、山田。
    彼のお手本は、あくまでも、富士山の美しい裾野の曲線だったのです。
    法隆寺夢殿と、富士山。
    その二つを具現化した世界に誇る建築物、日本武道館を設計した山田守が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 1976年12月1日、日本武道館で、女性ソロ・アーティストとして初の単独公演を行った、レジェンドがいます。
    オリビア・ニュートン・ジョン。
    ささやくように歌い始めた『Love Song』という楽曲が、武道館の会場内に沁みわたっていきます。
    およそ1万人のファンが待ち望んだ来日公演。
    美しく、知的で、笑顔を絶やさない、ブロンドヘアーの歌姫に、魅了されました。
    ラストには大ヒット曲『I Honestly Love You』、邦題『愛の告白』を熱唱。
    この曲でオリビアは、前年の3月、第17回グラミー賞を受賞しました。
    プレゼンターは、ポール・サイモン、そしてもうひとりは、ジョン・レノン。
    ツアー中で不在だったオリビアの代わりにトロフィーを受け取ったのは、アート・ガーファンクルでした。
    このとき、オリビア・ニュートン・ジョン、27歳。
    名実ともに、アーティストとしての絶頂期を迎えていました。
    この後、『そよ風の誘惑』や『ジョリーン』など、ヒット曲を連発します。
    1978年には、女優デビュー。
    映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演し、興行成績も大成功を収めました。
    家族にも恵まれ、順風満帆だった彼女でしたが、1992年、44歳のときに病魔が襲いかかります。
    乳がん。
    その後、73歳で亡くなるまで、闘病生活は続きました。
    彼女は自身もがんと闘いながら、オーストラリア・メルボルンに「オリビア・ニュートン・ジョンがん健康研究センター」を設立。
    多くの患者のために、奔走したのです。
    どんな苦難が押し寄せても、彼女は前を見て、笑顔を忘れませんでした。
    シンコーミュージック・エンタテイメント発行、中川泉 訳『オリビア・ニュートン・ジョン自伝』の副題は、こうです。
    Don't Stop Believin' 信じることをやめないで。
    今も聴くひとの心をなぐさめる、唯一無二のシンガー、オリビア・ニュートン・ジョンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 1976年6月26日、日本武道館は、およそ1万人の観客の熱気に包まれていました。
    伝説の「格闘技世界一決定戦」。
    映像は世界に配信され、10億人を超える人たちが、試合開始のゴングを待っています。
    アントニオ猪木の対戦相手は、世界ヘビー級チャンピオンでした。
    伝説のボクサー、モハメド・アリ。
    当時、アリは34歳。2年前にタイトルを奪還したばかりです。
    1974年10月30日、ザイール王国の首都キンシャサで行われた、WBC世界ヘビー級タイトルマッチ。
    王者ジョージ・フォアマンは上り調子の25歳。
    かなりのハードパンチャー。
    ロンドンのブックメーカーでは、11対5でフォアマン勝利、でした。
    誰もがマットに倒れこむアリを予感し、引退する彼を想像していたのです。
    新聞はこぞって、アリが勝つのは不可能だと書きました。
    しかし結果は、第8ラウンド2分58秒で、アリがまさかのKO勝ち。王座を奪い返したのです。
    世に言う『キンシャサの奇跡』。
    試合後のインタビューでアリは、カメラに向かって豪語します。
    「オレを疑った批評家たち! 見たか! オレこそが、世界一、史上最高なんだ! わかったか!」
    アリは、なぜか、「絶対無理」「不可能」という言葉に、敏感に反応しました。
    彼はこう言います。
    「不可能は、可能性なんだ。いいか、不可能っていうのは、自分の力で世界を切り開くことを放棄した、臆病者の言葉だ!」
    キンシャサの後、いくつかの防衛戦を制し、降り立った日本の地、日本武道館。
    アントニオ猪木との試合は、アリ側が決めたルールにより、プロレスの技をほとんど使えない猪木が、終始、マットに寝ころんでキックを繰り出す状態が続きました。
    試合は最終ラウンドまでビッグファイトもなく、結果、ドロー。
    消化不良を起こした会場のファン、そして全世界の視聴者から非難の言葉があびせられます。
    しかしアリの踊るようなステップは、日本人の目に焼き付きました。
    ベトナム戦争への徴兵拒否や、数々の暴言でバッシングの嵐の中にあっても、彼は生涯「闘う姿勢」を崩しませんでした。
    アリの激しい闘争心は、どこから来るのでしょうか。
    バラク・オバマが敬愛し、エミネムが影響を受けた世界チャンピオン、モハメド・アリが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年20年ぶりに発行された新紙幣、その五千円札の顔になった、日本女子教育の先駆者がいます。
    津田梅子(つだ・うめこ)。
    まだ女性の教育が『良妻賢母』のためだけだった時代に、留学のための「日本婦人米国奨学金」を創設したり、女子英学塾、のちの津田塾大学を設立するなど、梅子は、女性の社会進出を推進するさまざまな取り組みに一生を捧げました。
    彼女の父、津田仙(つだ・せん)は、下総国佐倉藩、現在の千葉県佐倉市に生まれ、日本の近代農業の発展に尽力しました。
    さらに福沢諭吉らと共に、アメリカに留学。
    欧米の文化にも精通した知識人でした。
    しかし、そんな先進的な津田仙であっても、姉の琴子(ことこ)に次いで梅子が生まれたとき、こう言い放ったのです。
    「なんだ、また、女が生まれたのか、今度は男だと思っておったのに、後継ぎにもなりはしない。
    つまらん! もう、どうでもいい!」
    梅子が生まれた1864年は、明治政府ができる4年前。
    封建制度は厳しく女性を縛り、どう生きるかより、どんな男性と結婚するかが重要だと、親に諭される時代でした。
    梅子の父も御多分にもれず、梅子の幸せは結婚にあると思いつつ、ただ、他の父親とは違う助言をしました。
    「私は20歳で留学したので、英語を習うのにとても苦労したんだ。
    語学をやるのはもっともっと若いうちがいい」
    そうして、梅子は若干6歳で、岩倉使節団に応募。
    アメリカに留学することになったのです。
    この決断が、彼女の後の人生を決定づけたのは間違いありませんが、梅子の凄さは、苦難にめげない持続力でした。
    当時、英語ができるだけでは、職は限られ、なかなか就職のあてがない状況。
    それでも女子教育の場を造りたいと決めた彼女は、文字通り東奔西走し、何度失敗しても意志を曲げなかったのです。
    女性の地位向上に邁進したレジェンド、津田梅子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 日々の暮らしに欠かせない日用品にこそ「美しさ」があると唱え、無名の職人の仕事に価値を見出したレジェンドがいます。
    柳宗悦(やなぎ・むねよし)。
    民衆的工藝、すなわち、「民藝」。
    その父と言われる彼の思想は、多くのひとに受け継がれ、今、さらに注目を集めています。
    『民藝 MINGEI―美は暮らしのなかにある』という展覧会は、今年4月の世田谷美術館を皮切りに、現在は、富山美術館、そのあと、名古屋、福岡と、全国を縦断して開催されます。
    「衣・食・住」をテーマに展示された美しい品々。
    この展覧会の素晴らしさは、その民藝を産み出した産地、作り手も紹介しているところ。
    それこそ、柳が大切にしたことでした。
    彼は、今から100年以上前に、日本各地の伝統芸能や伝統文化が廃れて行くのではないかという不安を抱き、あらためて、土地に根差した工芸を守ろうとしたのです。
    柳は、25歳で結婚すると、すぐに千葉県の我孫子に引っ越し、およそ7年半を過ごします。
    親戚だった柔道の大家・嘉納治五郎の別荘があった場所でした。
    声楽家の妻は、夫のいっときの気の迷いだと思いますが、柳に迷いはありません。
    この場所こそ、自分を生かす土地だと、『直観』が働いたのです。
    直観のカンは、観る。経験や記憶をふまえた心の判断。
    その直観は、あらゆる絆を引き寄せます。
    志賀直哉、武者小路実篤、そして生涯の親友となる、バーナード・リーチ。
    我孫子は、白樺派の拠点になり、民藝の総本山として君臨するのです。
    当時、我孫子は、東の鎌倉と言われるほどの景勝地。
    眼下に手賀沼を見下ろす風光明媚な自然は、作家たちの創作意欲をかきたて、柳も、日々の暮らしを見つめる機会を授けられました。
    東京の一等地、麻布に生まれ、学習院から東京帝国大学へ進み、何不自由ない生活の中にあった柳が、なぜ、我孫子に移住したのか、そこには、彼が終生、大事にした、直観という名の啓示があったのです。
    日本の近代美術に一石を投じた賢人・柳宗悦が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 「僕の前に道はない
     僕の後ろに道は出来る
     ああ、自然よ
     父よ
     僕を一人立ちにさせた広大な父よ
     僕から目を離さないで守る事をせよ」
    という有名な書き出しで知られる『道程(どうてい)』。
    この詩を書いた、レジェンドがいます。
    高村光太郎(たかむら・こうたろう)。
    高村光雲(たかむら・こううん)という高名な彫刻家の長男として生まれた彼は、当然のことのように彫刻の道に進みますが、一方で、いつも父親の存在に悩みます。
    どちらかというと分業制をとり、職人肌だった父に対抗するかのように、文学や絵画にのめりこみ、職人というより、芸術家として独り立ちしたいという欲求に駆られました。
    絶えず、父とは違うアイデンティティを探す日々。
    そうして辿り着いたのが、詩を書くという行為でした。
    いかに人の魂を揺さぶる作品を創るか、ということに心を砕いた74年の生涯の中で、高村光太郎は、二度の大きな後悔を経験します。
    ひとは、後悔をせずには生きられないのかもしれません。
    そして、その後悔をどう心の中に収めるかが、その後の人生を左右するのでしょう。
    光太郎の一つ目の後悔は、妻、智恵子を早くに亡くしてしまったこと。
    千葉県の九十九里で、心と体を病んだ智恵子を懸命に看病しますが、その甲斐もなく、妻は、彼が56歳のとき、亡くなります。
    「夫が僕のような芸術家ではなく、芸術を解する一般のひとだったり、あるいは全く無関係のひとだったりすれば、君は心を壊さずに済んだのかもしれない」と激しく自分を責めます。
    もうひとつの後悔は、太平洋戦争に際して、戦意高揚のための戦争詩を多く書いてしまったこと。
    戦後、彼はそんな自分を罰するかのように、7年もの間、岩手県花巻の山奥にひとり、引きこもります。
    今なお彼の作品が私たちの心をうつのは、自らの後悔から目をそむけず、真正面から対峙した姿勢にあるのかもしれません。
    戦前から戦後を生き抜いた芸術家・高村光太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • その書物が、現代の経済学、経営学に影響を与えていると言われる、江戸時代中期の儒学者がいます。
    荻生徂徠(おぎゅう・そらい)。
    彼は、5代将軍綱吉や8代将軍吉宗に仕え、幕府ご意見番として政策の示唆・立案を任されました。
    彼の逸話の中で最も有名なものは、赤穂浪士の討ち入り事件の裁きかもしれません。
    松の廊下で刀を抜くのは、打ち首必至の御法度。
    当時の法にも厳罰が記されていました。
    47人の斬首は、誰もが納得する結末でしたが、徂徠は、47士たちの「義」を重んじ、名誉ある切腹を進言したのです。
    切腹と斬首。
    それは天と地の差があったのです。
    法の裁きと、情け。
    二つを使い分けることで、徂徠は、世の中を治める真理にたどり着きました。
    『徂徠豆腐』という、有名な講談、あるいは落語があります。
    芝・増上寺の門下で、ひどく貧しい暮らしをしていた徂徠が、近所の豆腐屋から、ほどこしを受けたお話です。
    金のない徂徠に、毎日のように豆腐を持ってきてくれる豆腐屋。
    彼が恐縮して断ると、代わりに『おから』の煮つけを分けてくれるようになったのです。
    やがて、徂徠が姿を消してしばらく経った頃、火事で豆腐屋は焼けてしまいます。
    そこへ、立派な身なりになった徂徠がやってきて、新築の店を与えたのです。
    「こんなことをしてもらってはいけません、いただけません」と辞退する豆腐屋の主人に、徂徠は言いました。
    「こいつは、新築の豆腐屋なんかじゃない、こいつは、ただの『おから』だよ」と。
    この物語には、もちろん脚色はありますが、徂徠の実際のエピソードが元になっていると言われています。
    ふだんは、歯に衣着せぬもの言いで、敵をつくり、「炒り豆を食べながら、ひとの悪口を言うのがイチバンの楽しみだ」と、うそぶいていましたが、常にひとを観察し、その心の行方を探ろうとしていたのです。
    「理性」と「情け」で乱世を生き抜いた賢人・荻生徂徠が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • フランス国内のみならず、全世界で今も愛される伝説の歌姫がいます。
    エディット・ピアフ。
    まだ記憶にも新しい、2024パリオリンピックの開会式。
    フィナーレを飾ったセリーヌ・ディオンが魂を込めて熱唱した歌、それはピアフの代名詞、『愛の讃歌』でした。
    難病スティッフ・パーソン症候群と闘い、満身創痍で歌ったセリーヌは、度重なる事故や病でボロボロな体でも歌い続けたピアフの姿と重なります。
    身長は140センチちょっと。体重は40キロに届くか届かないか。
    ステージネーム、ピアフは「小さなスズメ」という意味。
    そんな小柄で華奢な彼女の47年の生涯は、壮絶なものでした。
    母親から育児放棄を受け、祖母が働く売春宿で暮らした少女時代。
    目の病で失明の危機を経験。
    大道芸人の父親と二人、路上に立って歌う貧困生活をおくる。
    若くして妊娠、出産。しかし、その子を亡くす。
    アルコール依存。殺人事件の容疑者として逮捕。
    出会う男性が、事故や病で亡くなっていく。
    4度にわたる交通事故。大金をだまし取られ、借金生活。
    彼女は自伝に、自らの生涯を、こう表現しました。
    「私は、おそろしい人生をおくってきました」
    しかし、ピアフはまた、こうも記しています。
    「私は、なにひとつ、後悔していない。
    もう一度人生を と神様に言われたら、私はこの人生を選ぶ」
    2007年に公開された彼女の伝記映画『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』のラストシーン。
    ピアフに扮するマリオン・コティヤールが、まるで老婆のようにステージに現れます。
    やがて歌い始めれば、その力強さに、聴衆は魅了されるのです。
    歌ったのは、『水に流して』。
    私は後悔しない、代償を払い、全ての過去は清算したと、歌い上げました。
    「自分に起きたことは、いいことも悪いことも全部、私には同じこと」
    今もなお、圧倒的な存在感を失わないシャンソンのレジェンド、エディット・ピアフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 『フランス人に最も愛される政治家』と評されるレジェンドがいます。
    シモーヌ・ヴェイユ。
    ほぼ同時期に活躍した、同姓同名の哲学者の女性がいますが、今週は、政治家のシモーヌ・ヴェイユの物語をお届けいたします。
    パリオリンピック2024の開会式。
    フランスの歴史を作ったとされる10人の女性の銅像がセーヌ川沿いに並びましたが、その中に、シモーヌの像もありました。
    シモーヌ・ヴェイユの功績は、完全なる男性社会だった弁護士、判事という法曹界に飛び込み、治安判事、厚生大臣を経て、フランス人女性として初めて、欧州議会議員の議長に就任。
    厚生大臣時代には、人工妊娠中絶の合法化のための法案を議会に提出し、筆舌に尽くしがたい非難批判を受けながら、法案を可決に導きます。
    女性、移民や囚人など弱者のために、生涯を捧げたのです。

    ユダヤ系フランス人である彼女は、16歳のとき、ナチス・ドイツにより、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。
    母と姉と同じ収容所に入りますが、母が亡くなり、別の収容所で、父と兄を亡くします。
    収容所での壮絶な体験は、亡くなるその日まで、彼女を苦しめ、夜中に悪夢にうなされ、過呼吸になることは避けられませんでした。

    寒さと飢え、病、強制労働に苦しむ収容所の生活。
    でも、母は、亡くなる最後まで、シモーヌに言い続けました。
    「善い行いをしなさい」
    拷問を受ける同室の女性をかばい、自分もムチで叩かれる。
    それでも母は、毅然としていました。
    善い行いをしても、損ばかりするのではないか。
    人間は、しょせん、我が身だけが可愛い。
    実際に、飢えや寒さの極限状態では、わずかな食べ物の奪い合いだったのです。
    それでも、母は言う。
    「シモーヌ、善い行いをしなさい」

    回想録をもとに作られ、2022年のフランスの年間興行収入第一位に輝いた映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』のラストは、母に抱かれる、幼いシモーヌの姿でした。
    「母は、私の全ての規範です」
    そう言い切った伝説の女性、シモーヌ・ヴェイユが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • ピカソやマティスにキュビズムという財産を残し、建築家、ル・コルビュジエには、世界を垂直と水平、直角で構築する手法を継承した、近代絵画の父がいます。
    ポール・セザンヌ。
    後期印象派の巨匠として、モネやルノワールと共に、日本人に大人気の画家ですが、彼が世の中に本格的に認められたのは、67歳でこの世を去ったあとのことでした。
    銀行家の父の莫大な財産を受け継ぎ、金銭的な苦労は、ほとんどなかったセザンヌ。
    ただ、自分の絵が認められるまでは、苦難の道のりでした。
    サロンには、落選続き。
    作品を発表すれば、誹謗中傷、罵詈雑言。
    落ち込んで、部屋から一歩も出ずに、絵を諦めようとしたことも一度や二度ではありません。
    そんな彼を励まし、支え続けたのは、同じ中学に通っていた親友、小説家のエミール・ゾラでした。
    風景画を自分の主戦場と捉えていたセザンヌが、なぜ、リンゴの絵を画くようになったのか。
    そこに、ゾラとの友情の証が隠されています。

    失意の中、部屋から一歩も出られなくなっていたセザンヌの目の前にある、籠いっぱいのリンゴ。
    彼は、リンゴをじっくり観察しました。
    匂いをかぎ、色を確かめ、並べ、重ねる。
    あるリンゴは、窓辺に置き、それが腐るまで毎日飽きもせず、眺めたと言います。
    そうして彼は、心に誓うのです。
    「私は、リンゴで、世界をあっと言わせる」
    リンゴを画いては破り、また画いては破る日々。
    彼は毎朝、自分にこう言い聞かせました。
    「私は、毎日進歩している。私の取り柄は、それしかない」

    のちにピカソは、セザンヌの『りんごとナプキン』という絵を見て、体がふるえるほど感動します。
    そこには、既成概念や古いしきたりを打ち破るチカラがありました。
    ピカソは、友人への手紙にこう書いています。
    「セザンヌは、私のただひとりの先生です。
    彼は皆にとって、父親のような存在なのです。
    そして、私たちは、彼に守られています」
    近代絵画の進化を担ったレジェンド、ポール・セザンヌが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • フランスを救った英雄として、今も語り継がれる、伝説の少女がいます。
    ジャンヌ・ダルク。
    パリ1区から2区。リヴォリ通りをルーブル美術館に向かって歩くと、右手にチュイルリー公園の緑が見えてきます。
    やがてピラミッド広場に到着すれば、そこには黄金に輝く騎馬像。
    その馬にまたがる女性こそ、ジャンヌ・ダルクです。
    彼女を主人公にした映画は40本を超え、イングリッド・バーグマンやミラ・ジョヴォヴィッチなど、名立たる名優たちがジャンヌに扮しました。
    また伝説の聖女を描いた絵画も枚挙にいとまがなく、フランスのゆかりの地に、彼女の銅像が数多く建っています。
    ナポレオンと並び称されるほど、英雄として崇められていますが、実は、彼女の評価・評判には、紆余曲折がありました。

    13歳で神の声を聴き、16歳で戦いに参戦、19歳で処刑されるという、まるでフィクションの主人公のような人生。
    そのあまりに現実離れしたストーリーに、架空の人物ではないか、あるいは時の権力者に捻じ曲げられた捏造の物語ではないかと、憶測やデマが飛び交いました。
    意外にも、1400年代に生きたジャンヌ・ダルクが、フランスの救世主だった女性として脚光を浴びるのは、400年もたってからのことなのです。
    きっかけは、1841年から1849年にかけて、二つの裁判資料が発表されたことでした。
    ひとつは、ジャンヌを異端として断罪する、処刑裁判の記録。
    もうひとつが、ジャンヌ亡きあと、遺族が起こした復権裁判文書。
    この二つの資料で、ジャンヌ・ダルクが実在の人物であり、しかも、神の意志に従順で誠実な、フランスを愛するひとりの少女だったことが証明されたのです。

    百年戦争の混乱の中、イングランド軍に包囲されたオルレアンという街を解放し、王太子だったシャルルを国王の座に導いたジャンヌ。
    しかし、コンピエーニュの戦いに敗れ、イングランド軍の捕虜になってしまいます。
    厳しい詰問を受けながら、彼女は、一度も自説を曲げませんでした。
    「私は、神の声を聴き、それに従っただけです」
    なぜ、19歳の若さで、そこまで強くなれたのでしょうか。
    奇跡の少女、ジャンヌ・ダルクが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • ファッション・デザインによって女性の自由を獲得したレジェンドがいます。
    ココ・シャネル。
    イギリスの文豪、バーナード・ショーは言いました。
    20世紀最大の女性は、キュリー夫人と あともうひとり。
    それは、ココ・シャネルであると。
    シャネルは、多くの芸術家を支援しました。
    パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ストラヴィンスキー。
    彼女が支援するアーティストには共通点がありました。
    革新的で、独創性が飛びぬけていること、そして、それゆえに理解されず、ときには心ない批判、誹謗中傷につぶされそうになっていること。
    シャネル自身、いつも「人がやらないことをやり」、そのことで叩かれ、虐げられてきました。

    父の愛を知らず、母を早くに亡くし、孤児院で育ったシャネル。
    歌手になる夢を抱きますが、オーディションに落ちる日々。
    しかし、絶望の中でも、彼女はある信条を手放すことはありませんでした。
    それは、「特別な存在になるには、ひとと違っていなければならない」。
    シャネルは、自分が感じた違和感、疑問を大事に守り、そこからデザインを発想し、新しいファッションを創り出していったのです。
    初めて富裕層のパーティーに出席したとき、彼女は思います。
    「なぜ、女性は男性を喜ばすためだけに、カラフルな色を身にまとうのでしょう。
    女性の美しい肌をいちばん際立たせるのは、黒。
    だから、私は、黒一色でドレスを作りたい!」
    当時、喪服にしか採用されなかった黒い服を、一般的なものに変えたのは、シャネルだったのです。
    封建的な男性社会にあって、彼女の存在は疎まれますが、彼女は、生涯、生き方を変えませんでした。
    戦争をくぐりぬけ、87年の人生をファッションに捧げた賢人、ココ・シャネルが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 静岡県浜松市出身の、映画監督のレジェンドがいます。
    木下惠介(きのした・けいすけ)。
    黒澤明と同時期に日本映画の隆盛に貢献し、国内外で人気を二分した巨匠です。
    木下が脚本を書き監督した、日本で最初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』は、今年8月、藤原紀香主演で舞台化されます。
    木下を師匠と仰ぐ、脚本家の山田太一は、「いつの日か、木下作品がもう一度注目されるときが、きっと来る」と語っていました。
    コメディ、感動作品、悲劇から社会派のシリアスものまで、幅広いジャンルの映画を撮った彼が、映画に込めた思いとは何だったのでしょうか。
    浜松市には、そんな木下の足跡をたどることができる施設があります。
    『木下惠介記念館』。
    館内には、監督が収集していた灰皿や、愛用していた机、ソファーや所蔵していた本などが展示され、まるでそこに木下惠介がいるかのような息遣いが感じられます。

    浜松の「尾張屋」という漬物を中心に扱う食料品店で生まれた木下は、両親の寵愛を受けました。
    幼い頃に、絶対的な愛情をあふれるほど注がれた彼は、ささやかな日常の中に「優しさ」を見つける天才になったのです。
    戦時中、『陸軍』という戦意高揚映画のメガフォンをとることを命じられた木下は、出征していく息子を涙ながらに追う母の姿を延々、映しました。
    しかし、陸軍からNGが来ます。
    「お国のために戦地にいく我が息子を見送るとき、母は、決して泣かない!」と。
    もしかしたら息子と二度と会えないかもしれないと思う母が、涙を流さないはずがない。
    木下は一歩も譲らず、結局、監督を降ろされてしまいます。
    彼は所属する松竹に辞表を出しますが、幹部に説得され、慰留を受け入れました。
    幹部のひとりは、言ったのです。
    「木下君、君の映画を待っているひとが、たくさんいるんだ!」
    英雄ではなく、市井のひとの弱さと優しさに光をあてた名監督、木下惠介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 7月26日から静岡市美術館で開催される『西洋絵画の400年』でも観ることができる、印象派の巨匠がいます。
    ピエール=オーギュスト・ルノワール。
    淡く優しいタッチ。あたたかい色使い。
    描かれた幸せそうな人物たちは口元に笑みをとどめる。
    モネと双璧をなす、日本人に大人気の作家・ルノワールは、観るひとを豊かな気持ちにいざなってくれます。
    今回の静岡市美術館の展覧会では、彼の『赤い服の女』という名作が展示される予定です。
    当時流行していた、ふくらみがある袖が印象的な赤いドレスを着て、麦わら帽子をかぶったモデルの女性は、満ち足りた表情でこちらを見ています。
    全国展開の喫茶店の名前につけられるほど、日本人になじみがあるのは、その、観るひとを幸せにする絵の雰囲気によるものなのでしょう。
    もしかしたら、ルノワールを、ブルジョアの生まれで、幼い頃から苦労をしたことのない、幸せな人生をおくった画家、と認識しているひとが多いのかもしれません。
    貧しい仕立屋の息子に生まれた彼は、少しでもお金を稼ぐため、13歳から、磁器や陶器に絵を画く職人の見習いとして働きました。
    画家になることを目指し、絵画の学校に入っても、労働者階級の生徒は、彼ひとり。
    絵具を買うのもままならない生活からのスタートだったのです。
    サロンに挑戦しても、落選続き。
    仕事も、失業の連続。
    それでもルノワールは、絵を画くことをやめませんでした。
    それは、なぜだったのでしょうか。
    彼には、自分の仕事が人々を幸せにすることがあるという原体験があったのです。
    言い方を変えれば、自分の仕事の仕方ひとつで、ひとを幸せにするかどうかが決まるという経験を、早い段階で持つことができたのです。
    色彩の魔術師、ピエール=オーギュスト・ルノワールが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 江戸時代後期に大ベストセラー『東海道中膝栗毛』を書いた戯作者がいます。
    十返舎一九(じっぺんしゃいっく)。
    戯作者の戯作とは、江戸時代に流行った、通俗小説を含む、読み物のこと。
    36歳のときに、自分は書くことで自立すると決意して、以来、戯作だけを生業とした一九は、執筆活動だけで生計をたてた最初の作家だと言われています。
    一念発起して、わずか1年後に出した『東海道中膝栗毛』は、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、いわゆる、弥次さん喜多さんの東海道の旅を描いた連載小説。
    「膝栗毛」とは、自分の膝を栗毛の馬にたとえた表現で、「歩いて旅する」という意味です。
    1802年に初編が出版され、人気が人気を呼び、8年間の連載。
    気がつけば売れっ子作家になり、うんうんうなって執筆する机の隣で編集者が原稿を待つという、現代に通じる光景が、彼の随筆に残っています。
    なぜ、『東海道中膝栗毛』は、そこまで庶民の心をつかんだのでしょうか。
    一九は、同時期に活躍した作家、山東京伝(さんとう・きょうでん)や『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)に比べると、圧倒的に知的教養が劣っていたと言われていますが、彼には、普遍的な「人間のおかしみ」を捉える感性があったのです。
    『東海道中膝栗毛』に、時代の風刺や、政治や経済についての皮肉はありません。
    あるのは、ただ、日常のおかしみだけ。
    そこに人々は共感し、失敗して騒動を起こす弥次さん喜多さんを笑うことで、日々の苦しさやストレスから解放されたのです。
    一九の出自や生涯については、明確な文献がとぼしく、所説ありますが、ただ一点、彼が大切にしたものは一致しています。
    それは、彼に偏見がなかったこと。
    当時の江戸は地方者をさげすみ、笑うという風潮がありました。
    でも、一九は違いました。
    彼はひとの生まれ育ちではなく、人間本来が持つ、どうしようもない哀愁、おかしみを見ていたのです。
    静岡が生んだ唯一無二の作家、十返舎一九が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?