Episodes
-
新潟県糸魚川はヒスイの産出地として知られる場所です。
市内中心地から車で10分ほど 高台に上ったところに、縄文時代にヒスイ製品を作っていた加工工房がありました。長者ヶ原遺跡といいます。
標高90メートル、日本海から2.5㎞ほど入った場所にありました。
今から約5000年~4000年前の遺跡です。
初めは大珠という直径5センチを越える大きな玉を作って、これに穴をあけ装身具として作っていたそうです。
時代と共に形も小さくなり、勾玉などへ変わったいったのです。
遺跡には茅葺きの屋根をもった縄文時代の住居が2~3棟再現されていました。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
安曇族の本拠地は福岡市の志賀の島です。
志賀の島には島の至る所に神功皇后の伝説が残っています。
そして、安曇族の長である阿曇の磯良の話も志賀海神社にある二つの亀石に残っています。
亀石は本殿のすぐ横にあり、下の海の中道を見下ろす場所に置いていあります。
亀石はその名のように海亀そっくりの形をしています。
阿曇の磯良はこの亀に乗って、鞨鼓を胸に、舞を舞いながら神功皇后の前に現れるのです。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
Missing episodes?
-
穂高有明矢村には「矢矧三宝大荒神社」、通称「弥助神社」があります。
ここには、弥助という男が、あるとき助けた山鳥が美しい娘となって現れるという民話が残っています。
娘は弥助の妻となり、やがて十三の節がある山鳥の尾羽を使った矢を作ります。
この矢が八面大王を坂上田村麻呂が撃つ力になるという民話です。
神社には、弥助と山鳥の矢がご神体として祀られているそうです。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
八面大王ゆかりの場所を訪ねています。狐島という場所があります。
高瀬川と穂高川に挟まれた場所で州が形成された場所にあります。
狐島の名前の由来は、八面大王が狐に化けて逃げてきたから、だとか藪が多く狐が多かったからだとか、いろんな説があるそうです。
この狐島に1体の観音像がありました。
安曇野に多い馬頭観音かなと、よく見ますと驚いたことに馬頭ではなく狐の顔が彫ってありました。
案内人の川崎さんの話では、狐の顔が彫ってあるのは、恐らく安曇野でもこの1体だけでないだろうかということでした。
※ 写真は狐島の観音像
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
八面大王のの本拠地だとされるのが有明山の近くにある鼠穴地区です。
ここには、道路のすぐ側に玉垣で囲まれた場所にねずみ石という不思議な伝承をもった石があります。
大きさは1メートル四方くらいで饅頭型の石です。
この石の一部分に握りこぶしくらいの穴があいています。
この穴は有明山の山上にある金明水、銀明水につながっているとか、或いは、善光寺までつながっていて、かつて善光寺で地震があったときその騒動の音が穴から聞こえてきた、といった話しが伝わっている不思議な石です。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
八面大王が住んでいたといわれる魏志鬼の岩窟のすぐ近くの有明山神社には面白い石碑がありました。
開運招福という石碑です。
石の形は五円玉を1メートルの大きさにして、真ん中の四角い穴が開いておりその穴をくぐるものです。
面白いのは真ん中の四角い穴を口の字として読む点です。
口の前後と左右に1文字づつ文字が書いてあり、その文字と口の字を合わせて読むと一種の熟語になるという石です。
片方の側には、吾唯足知とあり、(われ・ただ・たるを・しる)つまり、分に安んじて貪らない、そして、もう片方には吉呼員和とあり(きちを・よんで・かず・わす)喜びを集めて和やかにという熟語になっていました。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
穂高神社の境内をゆっくり歩きますと、よく神社のことを理解できます。
境内には銅像が二つあります。
一つは、日光泉小太郎と犀龍社です。小太郎は安曇野を切り開いて肥沃な土地にした伝説的人物。
もう一つは、白村江の戦いで百済支援に大きな功績があった阿曇比羅夫の像です。
例年9月に行われる行われる「お船祭」は白村江の戦いで戦死した比羅夫の命日にちなんで行われていると伝わっています。
本殿の横のお船会館には、お船祭りで使用されるお船や穂高人形が展示してあります。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
穂高神社は志賀の島の志賀海神社とは深いつながりがあります。
それは、航海や漁業の安全を守る綿津見の神をそれぞれが祖神にもつからです。
穂高神社のご祭神は穂高見の命、綿津見命、それにニニギの命の三神です。
そして、重要なの穂高見の命が祀られている本殿、中殿の屋根の部分。
勝男木が棟の中央から左右にVの字状に伸びていること。
この形が船の棹の形だとか櫓や櫂の形だとかいわれるものです。
これが海人族の神であることを表しているのではないかといわれます。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
安曇族の安曇野での拠点となった場所は明科であったといわれます。
そして、明科には大きな伽藍をもった寺があったといわれます。
それが明科廃寺といわれ、現在も発掘調査が続けられています。
調査に携わってこられた安曇野市文化財保護審議会委員の大澤慶哲さんの話では瓦はたくさん出土しているが、伽藍があったかどうかは未だ分からないということ。
そして、安曇氏とお寺の関係もわかっていません。
というのは、調査地点は住宅地であるため調査の範囲が限られているからです。
安曇氏のお寺であったのか、さらに安曇氏の居館があったのか、今後の調査結果が待たれます。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
安曇族は仏像をもって安曇野へ入った、そして有明山が見える場所、明科(あかしな)に拠点と作った、というのがちひろ美術館の松本猛さんの説です。
松本さんは、その明科に安曇族は寺院も作ったのではないか、それが明科廃寺とされる場所では、とみています。
その証拠に塔の原という場所があり、かつて、塔が建っていた可能性があるとみています。
さらに、最近の調査でも多量の瓦が出土いるのです。
しかし、長年調査に当たっている安曇野市の文化財保護審議会委員の大澤慶哲さんの話では、どのような建物が建っていたのか、まだまだ発掘してみないとわからないと
いうことでした。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
安曇野の松川村にある観松院の仏像は、安曇族が持ち込んだのでは、とみていらっしゃるちひろ美術館の松本猛さん。
話はどうやら、527年の磐井の乱と関係ありそうです。
松本さんの説では、磐井の乱の際、磐井がヤマト王権側に敗れたため磐井側だった安曇族は日本海を遡って逃亡。
新潟県糸魚川あたりから陸路安曇野へ入ったのではないか、その際、仏像ももって安曇野へ入った、とみています。
そして、安曇野の有明山が見える明科辺りを拠点としたのではないかとみています。
有明山は対馬にもあり、安曇族と関係の深い山だから、ということです。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
安曇野の松川村のお寺、観松院には銅像菩薩半跏像という仏像があります。
この仏像は6世紀の後半から7世紀の初め頃、百済で作られ日本に持ち込まれたとみられるものです。
持ち込んだのは志賀の島を拠点に活躍していた安曇族だ、という説を展開しているのは安曇野の「ちひろ美術館」常任顧問の松本猛さん。
松本さんは、磐井の乱がきっかけで安曇族が九州から日本海沿いに北上し、新潟県糸魚川あたりから仏像をもって安曇野へ入ったのではないか、と見ていらっしゃるのです。
※左の仏像が観松院のもの。右は対馬の仏像。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
信濃大町の塩の道博物館「ちょうじや」の隣には大町の祭りを紹介する流鏑馬会館があります。
これは7月の若一王子神社の流鏑馬を紹介している場所です。
流鏑馬の射手士は毎年10町から10人の6才から9才までの男の子が出場します。
衣装は下は袴、上は陣羽織です。
出場する射手士の子供は一日神様として扱われるそうで、人が見てる前では地面に足をつけてはいけないことになっており、馬の乗り降りも大人に抱っこされてするそうです。
頭には三階傘というものをかぶり、その上ににわとりの人形をつけています。
これが神様であることの象徴だとか。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
信濃大町にある塩の道博物館~塩の道・ちょうじやの2回目もちょうじやから。
新潟県糸魚川から松本への塩の道、糸魚川から松本まで120キロありますが、大町までは80キロです。
その80キロの道のりを歩荷(ぼっか)といわれる運び人は、60キロの塩をカマスに入れて背中に背負い大町まで運んだのでした。
糸魚川から運んだものは塩、能登ブリ、エゴ、といったものでした。
帰りに糸魚川に運んだものは麻、タバコ、麦、そばといったものだったそうです。
塩は瀬戸内海の塩がはるばる大町まで運ばれていた、といいますから驚きです。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
信濃大町には、かつて塩問屋であった平林家が「塩の道ちょうじや」という塩の道の博物館の形をとって残っています。
1階には荷車をそのまま店の奥の倉庫へ横付けできるよう、今もレールの跡が残っています。
又、1階の土間にはには一間四方の囲炉裏が切ってあり、塩を運んできた歩荷(ぼっか)という人が草鞋姿のまま囲炉裏にに入れるような構造になっています。
囲炉裏の上は高い吹き抜けになっており、自在鉤が上からぶら下がっています。
高い天井部分には下から操作して窓を開けられるようになっており、煙の出口になっていました。
この博物館の黒川恵理子館長の案内で展示物をじっくり1階部分から見ていきます。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
塩の道で栄えた信濃大町にきました。この町は平安時代末期から鎌倉時代まで仁科氏という豪族が治めた地です。
この町の南東部はこの時代、仁科御厨(みくりや)という伊勢神宮の荘園になったそうです。
仁科氏はその中心部に仁科神明宮を創建し、御厨を管理しこの地を収めていたのだそうです。
この仁科神明宮の本殿と中門は国宝になっており、広い林の中にある建物は荘厳な雰囲気を漂わせています。
この仁科氏の居館は塩の道ぞいにありました。まわりから少し高い土地の遠くまで見通せる場所にありました。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
塩の道を青木湖、木崎湖と二つの湖を通って信濃大町に入ってきました。
ここにあるのが若一王子八幡宮。
ここには、神様と仏様が同居するという神仏集合がそのまま残っています。
正面の右の方の手前に三重の塔が、そして正面に観音堂が、左側に本殿があります。
本殿手前の方には赤い鳥居があるという、今では余り見られなくなった神仏習合の姿がここでは見られるのです。
そして、びっくりすのは本殿と本堂が廊下でつながっているのです。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
安曇族の足跡を追って塩の道を辿っています。白馬村を少し入ったところに飯森神社がありました。
水神様を祀った神社だそうです。
この辺は水が涸れることはないけれど、水があふれて洪水にしばしば襲われる場所だそうです。
この神社の裏には広大な土地が広がり、遠くに山が見えます。
神社の拝殿、本殿を結んだ先にあるのが八方岳、そしてそこには八方池があり、神社の奥宮があって、例年、洪水にならぬよう地元の方はそこでお祀りをするのだとか。
案内人の田中さんの家も、以前は毎年頭ほどの大きさの岩を堤防の材料にするため川へ運んだのだそうです。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
塩の道に精通していらっしゃる白馬小谷研究社の田中元二さんの案内で、塩の道を糸魚川から少し入った南小谷から松本方面へと向かっています。
大変景色のすばらしい場所へ出ました。白馬村倉下という場所です。
松川という青く澄んだ水が大きな橋の下を流れています。
田中さんの話では塩の道のすばらしい点は、季節によって景色の色が変化することだそうで、上が白銀、下が桜のピンクだったり、新緑の緑だったり、変化に富むのが
すばらしいんだそうです。
確かに青みがかった川のずっと上には白銀のアルプスの山々がありました。
塩の道も、糸魚川から入ると、食文化、言葉、住まいなど「わずかな距離で変化していくのが面白い」ということでした。
※写真は白馬村倉下からの景色
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices -
今週から安曇族の足跡を訪ねて信州へ向かいました。
安曇族は、日本海を北上し、信州安曇野へ入っていって住みついたのだ、という説があります。
では、一体どこから信州へ入って行ったのか。
有力な説の一つとして新潟県糸魚川から塩の道、千国街道を通っていったのだ、という説です。
この説を検証するために塩の道を通ってみることにしました。
出発地は、糸魚川からちょっと入ったJR南小谷駅付近から。
案内を頼んだのは、塩の道に精通していらっしゃる白馬小谷研究社の田中元二さん。
田中さんが運転する車で通ってみることにしました。
距離的には、糸魚川から松本までは120キロの旅になります。
早速、百体の観音様が出迎えてくれました。
※写真は百体観音
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices - Show more