Episodes

  • 『フランス人に最も愛される政治家』と評されるレジェンドがいます。
    シモーヌ・ヴェイユ。
    ほぼ同時期に活躍した、同姓同名の哲学者の女性がいますが、今週は、政治家のシモーヌ・ヴェイユの物語をお届けいたします。
    パリオリンピック2024の開会式。
    フランスの歴史を作ったとされる10人の女性の銅像がセーヌ川沿いに並びましたが、その中に、シモーヌの像もありました。
    シモーヌ・ヴェイユの功績は、完全なる男性社会だった弁護士、判事という法曹界に飛び込み、治安判事、厚生大臣を経て、フランス人女性として初めて、欧州議会議員の議長に就任。
    厚生大臣時代には、人工妊娠中絶の合法化のための法案を議会に提出し、筆舌に尽くしがたい非難批判を受けながら、法案を可決に導きます。
    女性、移民や囚人など弱者のために、生涯を捧げたのです。

    ユダヤ系フランス人である彼女は、16歳のとき、ナチス・ドイツにより、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。
    母と姉と同じ収容所に入りますが、母が亡くなり、別の収容所で、父と兄を亡くします。
    収容所での壮絶な体験は、亡くなるその日まで、彼女を苦しめ、夜中に悪夢にうなされ、過呼吸になることは避けられませんでした。

    寒さと飢え、病、強制労働に苦しむ収容所の生活。
    でも、母は、亡くなる最後まで、シモーヌに言い続けました。
    「善い行いをしなさい」
    拷問を受ける同室の女性をかばい、自分もムチで叩かれる。
    それでも母は、毅然としていました。
    善い行いをしても、損ばかりするのではないか。
    人間は、しょせん、我が身だけが可愛い。
    実際に、飢えや寒さの極限状態では、わずかな食べ物の奪い合いだったのです。
    それでも、母は言う。
    「シモーヌ、善い行いをしなさい」

    回想録をもとに作られ、2022年のフランスの年間興行収入第一位に輝いた映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』のラストは、母に抱かれる、幼いシモーヌの姿でした。
    「母は、私の全ての規範です」
    そう言い切った伝説の女性、シモーヌ・ヴェイユが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • ピカソやマティスにキュビズムという財産を残し、建築家、ル・コルビュジエには、世界を垂直と水平、直角で構築する手法を継承した、近代絵画の父がいます。
    ポール・セザンヌ。
    後期印象派の巨匠として、モネやルノワールと共に、日本人に大人気の画家ですが、彼が世の中に本格的に認められたのは、67歳でこの世を去ったあとのことでした。
    銀行家の父の莫大な財産を受け継ぎ、金銭的な苦労は、ほとんどなかったセザンヌ。
    ただ、自分の絵が認められるまでは、苦難の道のりでした。
    サロンには、落選続き。
    作品を発表すれば、誹謗中傷、罵詈雑言。
    落ち込んで、部屋から一歩も出ずに、絵を諦めようとしたことも一度や二度ではありません。
    そんな彼を励まし、支え続けたのは、同じ中学に通っていた親友、小説家のエミール・ゾラでした。
    風景画を自分の主戦場と捉えていたセザンヌが、なぜ、リンゴの絵を画くようになったのか。
    そこに、ゾラとの友情の証が隠されています。

    失意の中、部屋から一歩も出られなくなっていたセザンヌの目の前にある、籠いっぱいのリンゴ。
    彼は、リンゴをじっくり観察しました。
    匂いをかぎ、色を確かめ、並べ、重ねる。
    あるリンゴは、窓辺に置き、それが腐るまで毎日飽きもせず、眺めたと言います。
    そうして彼は、心に誓うのです。
    「私は、リンゴで、世界をあっと言わせる」
    リンゴを画いては破り、また画いては破る日々。
    彼は毎朝、自分にこう言い聞かせました。
    「私は、毎日進歩している。私の取り柄は、それしかない」

    のちにピカソは、セザンヌの『りんごとナプキン』という絵を見て、体がふるえるほど感動します。
    そこには、既成概念や古いしきたりを打ち破るチカラがありました。
    ピカソは、友人への手紙にこう書いています。
    「セザンヌは、私のただひとりの先生です。
    彼は皆にとって、父親のような存在なのです。
    そして、私たちは、彼に守られています」
    近代絵画の進化を担ったレジェンド、ポール・セザンヌが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • Missing episodes?

    Click here to refresh the feed.

  • フランスを救った英雄として、今も語り継がれる、伝説の少女がいます。
    ジャンヌ・ダルク。
    パリ1区から2区。リヴォリ通りをルーブル美術館に向かって歩くと、右手にチュイルリー公園の緑が見えてきます。
    やがてピラミッド広場に到着すれば、そこには黄金に輝く騎馬像。
    その馬にまたがる女性こそ、ジャンヌ・ダルクです。
    彼女を主人公にした映画は40本を超え、イングリッド・バーグマンやミラ・ジョヴォヴィッチなど、名立たる名優たちがジャンヌに扮しました。
    また伝説の聖女を描いた絵画も枚挙にいとまがなく、フランスのゆかりの地に、彼女の銅像が数多く建っています。
    ナポレオンと並び称されるほど、英雄として崇められていますが、実は、彼女の評価・評判には、紆余曲折がありました。

    13歳で神の声を聴き、16歳で戦いに参戦、19歳で処刑されるという、まるでフィクションの主人公のような人生。
    そのあまりに現実離れしたストーリーに、架空の人物ではないか、あるいは時の権力者に捻じ曲げられた捏造の物語ではないかと、憶測やデマが飛び交いました。
    意外にも、1400年代に生きたジャンヌ・ダルクが、フランスの救世主だった女性として脚光を浴びるのは、400年もたってからのことなのです。
    きっかけは、1841年から1849年にかけて、二つの裁判資料が発表されたことでした。
    ひとつは、ジャンヌを異端として断罪する、処刑裁判の記録。
    もうひとつが、ジャンヌ亡きあと、遺族が起こした復権裁判文書。
    この二つの資料で、ジャンヌ・ダルクが実在の人物であり、しかも、神の意志に従順で誠実な、フランスを愛するひとりの少女だったことが証明されたのです。

    百年戦争の混乱の中、イングランド軍に包囲されたオルレアンという街を解放し、王太子だったシャルルを国王の座に導いたジャンヌ。
    しかし、コンピエーニュの戦いに敗れ、イングランド軍の捕虜になってしまいます。
    厳しい詰問を受けながら、彼女は、一度も自説を曲げませんでした。
    「私は、神の声を聴き、それに従っただけです」
    なぜ、19歳の若さで、そこまで強くなれたのでしょうか。
    奇跡の少女、ジャンヌ・ダルクが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • ファッション・デザインによって女性の自由を獲得したレジェンドがいます。
    ココ・シャネル。
    イギリスの文豪、バーナード・ショーは言いました。
    20世紀最大の女性は、キュリー夫人と あともうひとり。
    それは、ココ・シャネルであると。
    シャネルは、多くの芸術家を支援しました。
    パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ストラヴィンスキー。
    彼女が支援するアーティストには共通点がありました。
    革新的で、独創性が飛びぬけていること、そして、それゆえに理解されず、ときには心ない批判、誹謗中傷につぶされそうになっていること。
    シャネル自身、いつも「人がやらないことをやり」、そのことで叩かれ、虐げられてきました。

    父の愛を知らず、母を早くに亡くし、孤児院で育ったシャネル。
    歌手になる夢を抱きますが、オーディションに落ちる日々。
    しかし、絶望の中でも、彼女はある信条を手放すことはありませんでした。
    それは、「特別な存在になるには、ひとと違っていなければならない」。
    シャネルは、自分が感じた違和感、疑問を大事に守り、そこからデザインを発想し、新しいファッションを創り出していったのです。
    初めて富裕層のパーティーに出席したとき、彼女は思います。
    「なぜ、女性は男性を喜ばすためだけに、カラフルな色を身にまとうのでしょう。
    女性の美しい肌をいちばん際立たせるのは、黒。
    だから、私は、黒一色でドレスを作りたい!」
    当時、喪服にしか採用されなかった黒い服を、一般的なものに変えたのは、シャネルだったのです。
    封建的な男性社会にあって、彼女の存在は疎まれますが、彼女は、生涯、生き方を変えませんでした。
    戦争をくぐりぬけ、87年の人生をファッションに捧げた賢人、ココ・シャネルが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 静岡県浜松市出身の、映画監督のレジェンドがいます。
    木下惠介(きのした・けいすけ)。
    黒澤明と同時期に日本映画の隆盛に貢献し、国内外で人気を二分した巨匠です。
    木下が脚本を書き監督した、日本で最初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』は、今年8月、藤原紀香主演で舞台化されます。
    木下を師匠と仰ぐ、脚本家の山田太一は、「いつの日か、木下作品がもう一度注目されるときが、きっと来る」と語っていました。
    コメディ、感動作品、悲劇から社会派のシリアスものまで、幅広いジャンルの映画を撮った彼が、映画に込めた思いとは何だったのでしょうか。
    浜松市には、そんな木下の足跡をたどることができる施設があります。
    『木下惠介記念館』。
    館内には、監督が収集していた灰皿や、愛用していた机、ソファーや所蔵していた本などが展示され、まるでそこに木下惠介がいるかのような息遣いが感じられます。

    浜松の「尾張屋」という漬物を中心に扱う食料品店で生まれた木下は、両親の寵愛を受けました。
    幼い頃に、絶対的な愛情をあふれるほど注がれた彼は、ささやかな日常の中に「優しさ」を見つける天才になったのです。
    戦時中、『陸軍』という戦意高揚映画のメガフォンをとることを命じられた木下は、出征していく息子を涙ながらに追う母の姿を延々、映しました。
    しかし、陸軍からNGが来ます。
    「お国のために戦地にいく我が息子を見送るとき、母は、決して泣かない!」と。
    もしかしたら息子と二度と会えないかもしれないと思う母が、涙を流さないはずがない。
    木下は一歩も譲らず、結局、監督を降ろされてしまいます。
    彼は所属する松竹に辞表を出しますが、幹部に説得され、慰留を受け入れました。
    幹部のひとりは、言ったのです。
    「木下君、君の映画を待っているひとが、たくさんいるんだ!」
    英雄ではなく、市井のひとの弱さと優しさに光をあてた名監督、木下惠介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 7月26日から静岡市美術館で開催される『西洋絵画の400年』でも観ることができる、印象派の巨匠がいます。
    ピエール=オーギュスト・ルノワール。
    淡く優しいタッチ。あたたかい色使い。
    描かれた幸せそうな人物たちは口元に笑みをとどめる。
    モネと双璧をなす、日本人に大人気の作家・ルノワールは、観るひとを豊かな気持ちにいざなってくれます。
    今回の静岡市美術館の展覧会では、彼の『赤い服の女』という名作が展示される予定です。
    当時流行していた、ふくらみがある袖が印象的な赤いドレスを着て、麦わら帽子をかぶったモデルの女性は、満ち足りた表情でこちらを見ています。
    全国展開の喫茶店の名前につけられるほど、日本人になじみがあるのは、その、観るひとを幸せにする絵の雰囲気によるものなのでしょう。
    もしかしたら、ルノワールを、ブルジョアの生まれで、幼い頃から苦労をしたことのない、幸せな人生をおくった画家、と認識しているひとが多いのかもしれません。
    貧しい仕立屋の息子に生まれた彼は、少しでもお金を稼ぐため、13歳から、磁器や陶器に絵を画く職人の見習いとして働きました。
    画家になることを目指し、絵画の学校に入っても、労働者階級の生徒は、彼ひとり。
    絵具を買うのもままならない生活からのスタートだったのです。
    サロンに挑戦しても、落選続き。
    仕事も、失業の連続。
    それでもルノワールは、絵を画くことをやめませんでした。
    それは、なぜだったのでしょうか。
    彼には、自分の仕事が人々を幸せにすることがあるという原体験があったのです。
    言い方を変えれば、自分の仕事の仕方ひとつで、ひとを幸せにするかどうかが決まるという経験を、早い段階で持つことができたのです。
    色彩の魔術師、ピエール=オーギュスト・ルノワールが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 江戸時代後期に大ベストセラー『東海道中膝栗毛』を書いた戯作者がいます。
    十返舎一九(じっぺんしゃいっく)。
    戯作者の戯作とは、江戸時代に流行った、通俗小説を含む、読み物のこと。
    36歳のときに、自分は書くことで自立すると決意して、以来、戯作だけを生業とした一九は、執筆活動だけで生計をたてた最初の作家だと言われています。
    一念発起して、わずか1年後に出した『東海道中膝栗毛』は、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、いわゆる、弥次さん喜多さんの東海道の旅を描いた連載小説。
    「膝栗毛」とは、自分の膝を栗毛の馬にたとえた表現で、「歩いて旅する」という意味です。
    1802年に初編が出版され、人気が人気を呼び、8年間の連載。
    気がつけば売れっ子作家になり、うんうんうなって執筆する机の隣で編集者が原稿を待つという、現代に通じる光景が、彼の随筆に残っています。
    なぜ、『東海道中膝栗毛』は、そこまで庶民の心をつかんだのでしょうか。
    一九は、同時期に活躍した作家、山東京伝(さんとう・きょうでん)や『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)に比べると、圧倒的に知的教養が劣っていたと言われていますが、彼には、普遍的な「人間のおかしみ」を捉える感性があったのです。
    『東海道中膝栗毛』に、時代の風刺や、政治や経済についての皮肉はありません。
    あるのは、ただ、日常のおかしみだけ。
    そこに人々は共感し、失敗して騒動を起こす弥次さん喜多さんを笑うことで、日々の苦しさやストレスから解放されたのです。
    一九の出自や生涯については、明確な文献がとぼしく、所説ありますが、ただ一点、彼が大切にしたものは一致しています。
    それは、彼に偏見がなかったこと。
    当時の江戸は地方者をさげすみ、笑うという風潮がありました。
    でも、一九は違いました。
    彼はひとの生まれ育ちではなく、人間本来が持つ、どうしようもない哀愁、おかしみを見ていたのです。
    静岡が生んだ唯一無二の作家、十返舎一九が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 日本初の女医養成機関を設立した女性がいます。
    吉岡彌生(よしおか・やよい)。
    21歳のときに、内務省医術開業試験に合格し、日本で27人目の女性医師になった吉岡ですが、医学界の女性への門は完全に開かれたとは言い難い状況が続きました。
    いち早く男女共学を打ち出し、女性医師育成に尽力してきた医学校、済生学舎も、学内に女性がいることで風紀が乱れると判断。
    やがて、女医不要論がまかりとおり、門は閉じられてしまいます。
    それに納得できなかった吉岡は、ここで周囲も驚く行動に出ます。
    「誰もつくらないのであれば、私がつくるしかない!」
    こうして、彼女は、東京女子医科大学の前身、東京女医学校を設立したのです。
    出身地、静岡県掛川市には、彼女の記念館があります。
    1998年11月に開館した「掛川市吉岡彌生記念館」は、吉岡の人生を3つのステージに分け、わかりやすく解説。
    移築した生家も見ることができます。
    他の記念館と違うのは、そこに看護や医学の展示があること。
    からだの仕組みがわかるパネルや、医学に関する書籍が並び、子どもから大人まで、医学の世界に触れられるスペースになっています。
    そこに、記念館設立の志が垣間見られ、あたかも館内に、郷土の偉人が立っているように感じられます。
    かかげられた、彼女の座右の銘。
    『至誠一貫(しせいいっかん)』。
    自分の信じたこと、まわりのひとへの誠意、それを貫けば、必ず、ひとに伝わり、世の中を動かすことができる。
    吉岡は、女性がまだ社会的な活躍を認められなかった時代に、誠意という武器だけを手にとり、果敢に挑戦を続けました。
    彼女の行動力の原点は、ひらめき。
    ひとは、せっかくの「ひらめき」を、リスクヘッジをするがあまり、自分で壊してしまいます。
    吉岡は、人生のいくつかの分岐点で、いつも、その「ひらめき」を大切にしてきたのです。
    近代日本の女性進出の立役者、吉岡彌生が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 南アフリカ共和国、初の黒人大統領になったレジェンドがいます。
    ネルソン・マンデラ。
    マンデラは、2013年に95歳でこの世を去っていますが、今年は、彼が大統領になってから、30年。
    人種差別に正面から挑んだ闘士の功績と魂は、今も国内はもちろん世界中に影響を与え続けています。
    彼の人生は、まさしく闘いの歴史。
    アパルトヘイトという厳しく理不尽な人種差別政策と闘った代償は大きく、彼は国家反逆罪で、ロベン島の監獄に収監。
    27年もの間、過酷な刑務所で過ごしたのです。
    狭い独房と、激烈な労働。
    塀の中でも肌の色に対する差別がまかりとおっていました。
    白人の囚人と、食事や服が違う、本は読めない、規律自体に大きな差があったのです。
    ここでも、マンデラは闘います。
    ただ、そのときにとった彼の態度は、攻撃的とは真逆。
    白人の刑務官たちに、ひたすら丁寧に冷静に訴え続けたのです。
    若い時期は、暴力には暴力、という考えで、むしろ過激な行動もいとわなかったマンデラ。
    でも、そこに解決の糸口は見つからない、むしろ、怨みは怨み、憎しみは憎しみを呼び、負の連鎖が止まらないことを知りました。
    1990年、72歳のときに釈放された彼は、圧倒的な支持を得て、4年後に大統領に選ばれます。
    クリント・イーストウッドが監督した実話をもとにした映画『インビクタス/負けざる者たち』では、そんな大統領就任後 間もないマンデラの姿が描かれています。
    マンデラを演じるのは、名優モーガン・フリーマン。
    1995年に南アフリカで開催されたラグビーワールドカップ。
    当時の南アフリカにおけるラグビーは、白人のスポーツ。
    アパルトヘイトの代名詞でした。
    それまでの金色と緑色のジャージや、愛称「スプリングボクス」を変更すべきという黒人たちの意見に、マンデラは反対します。
    「それでは、白人の怨みを買ってしまう。
    まわりを変えたいときは、まず自分が変わることだ。
    怒りや憎しみを消して、許す。
    そうすれば、南アフリカがひとつになる!」
    全世界に差別撤廃を訴えた英雄、ネルソン・マンデラが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年、没後40年を迎える、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督がいます。
    フランソワ・トリュフォー。
    27歳のときに初めて撮った長編映画『大人は判ってくれない』は、いきなりカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。
    世界中から賞賛を浴び、興行的にも大ヒットを記録します。
    原題は、直訳すれば「400回の殴打、打撃」。
    フランスの慣用句に照らし合わせれば、「分別のない、放埓(ほうらつ)な生き方」というタイトルのこの映画は、12歳の少年、アントワーヌが、母親に愛されず、孤独な毎日の果てに、事件を起こし、鑑別所送りになるという物語。
    これは、ほぼ、トリュフォーの実話と言われています。

    幼い頃から親の愛を知らずに育ったトリュフォーにとって、唯一のやすらぎは、自宅で読むバルザックと、暗闇の中で観る映画でした。
    特に映画を観ている間だけは、自分は何者にもなれた。
    今とは違う境遇、人生を、生きることができた。
    でも、ひとたび映画館の重い扉を開けて外に出れば、落第して学校をやめた自分、両親に愛されていない自分に向き合わなければなりませんでした。
    いちばん愛してほしかった母には、いつも厳しくされ、存在自体をうとましく思われていることに気がついてしまったのです。
    ただ、美しい母が好きでした。
    特に、母の長くてすらっとした脚に魅了されました。
    トリュフォーの映画には、ローアングルの女性のスカートや脚のカットがよく出てきますが、そこに彼の幼い日の憧憬が残されているのかもしれません。
    ジャン・リュック・ゴダールを筆頭に、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちが、哲学性や文学性を重んじながら、難解になっていくのに対し、トリュフォーは、何気ない日常を淡々と描きながら、ゆっくりと普遍に近づくというスタンスを、生涯、貫きました。
    彼にとって映画とは、孤独だった少年時代の自分が観て、救われるものでなくてはならなかったのです。
    自分を救ってくれた映画への恩返しを、命を賭けて作品にしたレジェンド、フランソワ・トリュフォーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • NHK朝の連続テレビ小説の主人公のモデルといわれる、日本初の女性弁護士がいます。
    三淵嘉子(みぶち・よしこ)。
    今年、生誕110年、没後40年を迎える三淵は、法曹界にまだ女性の登用がなかった時代に、果敢に挑戦を試み、弁護士を皮切りに、女性初の判事、女性初の家庭裁判所長の座につきました。
    彼女は、新聞記者やインタビュアーから、「三淵さんが法曹界にうってでるのは、女性の味方になりたいからですか?」と聞かれるのを嫌がりました。
    「わたくしは、女性のためとか男性のためとか、そういうことを考えたことはありません。
    あえて言うのであれば、か弱きものの力になれたらという思いで、法律家を志したのであります」
    その発言のとおり、彼女は後年、家庭裁判所の設置に尽力し、裁判長に就任。
    およそ16年間にわたり、のべ5000人以上の少年少女の更生に命を捧げました。
    判決を言い渡す際の、三淵の、子どもたちに向けた言葉は、愛情と優しさにあふれ、傍聴人はもとより、裁きを受ける少年少女たちも号泣したと言います。
    「あなたたちは、好き好んで、そういう環境に育ったわけではありません。
    ですが、負けてはいけません。環境のせいにしてはいけません。
    あなたたちが陽の光のほうに歩きさえすれば、必ず、手を差し伸べてくれるひとが現れるのです。
    だから、どうか、絶望しないで。
    どうか、明日を見捨てないでください」

    1933年、昭和8年、弁護士法が改正され、女性にも弁護士の資格が認められるようになりましたが、女性に門戸を開いた大学は、ほとんどありませんでした。
    旧帝大では、東北大学と九州大学のみ。
    選科生などの扱いを除けば、東京で唯一女性弁護士への扉を開いたのは、明治大学だけでした。
    その狭き門にあえて挑んだ三淵には、心に決めたある思いがあったのです。
    それは「自分のたった一回の人生を、精一杯、生きる」。
    シンプルで力強いその思いは、終生、変わることはありませんでした。
    想像を絶する壁に挑んだ、法曹界のレジェンド、三淵嘉子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年没後15年を迎える、今も多くのファンに読み継がれる、芥川賞作家がいます。
    庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)。
    庄野は、昭和20年代後半に文壇に登場した小説家たち、『第三の新人』のひとりに名を連ねています。
    第一次戦後派、第二次戦後派の作家たちは、自らの戦争体験を糧に、徹底したリアリズムで極限状態の人間を残酷なまでに描きました。
    それに対抗するかのように、『第三の新人』たちは、私小説の復活、短編小説の復興を軸に、身の回りで起こる、半径3メートルの出来事に注目しました。
    中でも庄野潤三は、同じ『第三の新人』の吉行淳之介や小島信夫と違い、家族の破綻や日常の退屈、ブラックユーモアではなく、日々の暮らしの中の、何気ない優しさや切なさに光を当てたのです。
    40歳を過ぎた頃、庄野は、神奈川県川崎市の生田、多摩丘陵の丘の上に、平屋の一軒家を建て、家族と移り住み、「山の上の家」と呼ばれたその家で、半世紀近く、家族とのささやかな思い出や、庭に咲いた花や木々の成長を、小説や随筆にしたためました。

    神奈川にゆかりのあるこの作家の記念展が、本日6月8日より8月4日まで、県立神奈川近代文学館で開催されています。
    『没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!』。
    この展覧会は、庄野の88年の生涯の軌跡はもちろん、彼の家族との写真や直筆の原稿やスケッチ、アメリカ留学中のノートなど、数多くの貴重な品々が展示されています。
    そこから浮かび上がるのは、彼がストイックなまでにこだわった、「文学は人間記録、ヒューマンドキュメントである」という信念。
    人間の根本に潜む「切なさ」と、生きていることの「懐かしさ」が深い感動を持って迫ってきます。
    彼には生涯守り続けた、ある流儀がありました。
    それは、「自分の羽根を打ち返す」。
    混迷を極める今こそ読まれるべき、唯一無二の作家、庄野潤三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年没後60年を迎えた、世界で初めて化学物質の危険性を告発した生物学者がいます。
    レイチェル・カーソン。
    アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身で、もともと生物学者だった彼女の名を一躍有名にしたのが、1962年に出版された『沈黙の春』という書物です。
    一見、純文学ともとれるタイトル、「森の生き物が死滅し、春になっても声がしない」という観念的で、ポエジーな書き出しのこの本は、実は、世界で初めての環境問題告発本だったのです。
    なぜ、こんなタイトルになったのか…。
    レイチェルが訴えた最大のターゲットが、DDTという殺虫剤だったことが大きく関係しています。
    第二次大戦中、アメリカ軍兵士の間で爆発的に蔓延した感染症。
    戦争で命を落とすより、マラリアなどの感染症で命を落とす兵士が多いとされていましたが、DDTをふりかけることで、多くの兵士が死なずに済んだと報じられました。
    その勢いを借りて、ノミなどの害虫を駆除する農薬として、アメリカ全土で大ヒット商品になったのです。
    当初から人体や環境への影響が懸念されていましたが、DDTを製造する会社が大きな力を持ち、批判的な論文や報道は全て握り潰されてきたのです。
    生物学者として、森を、海を、愛してやまないレイチェルは、食物連鎖の観点から、多くのデータを集め、DDT禁止を訴えることにしました。
    彼女の論文は、どの出版社に持ち込んでも断られてしまいます。
    化学物質を取り扱う企業の反対や訴訟を恐れてのことでした。
    当時、彼女は体の不調を感じていました。
    医者の診断は、手の施しようのない末期がん。
    病気を隠しつつ、痛みに苦しみながら、レイチェルはこの本の出版を諦めませんでした。
    しかし、思いはなかなか届かず、出版の夢は、やはりかなわないのかと絶望の淵に立ったとき、唯一、救いの手を差し伸べてくれたのが、時の大統領、ジョン・F・ケネディだったのです。
    死の直前まで信念を貫いた賢人、レイチェル・カーソンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 福井県には、全国でも名高いパイプオルガンを有する、「福井県立音楽堂 ハーモニーホールふくい」があります。
    パイプの数は、実に5014本。
    音色を選択するストップは70を数え、優しく繊細でありながら、ダイナミックな世界観を可能にしています。
    このホールで、6月16日、オルガン設置20周年を記念したコンサートが開催されます。
    オルガンを演奏するのは、世界的に有名で、日本を代表するオルガニスト、石丸由佳(いしまる・ゆか)。
    演目のひとつが、今週のレジェンド、カミーユ・サン=サーンスが作曲した、『交響曲第3番「オルガン付き」』です。
    サン=サーンスがこの偉大な作品を作曲したのは、1886年。
    51歳のときでした。
    この年には、「白鳥」を有する『動物の謝肉祭』も発表しています。
    幼い頃から神童としてもてはやされ、フランスの名門 マドレーヌ教会で、およそ20年にわたりオルガニストをつとめたサン=サーンスですが、その人生は、決して順風満帆なものではありませんでした。
    誰よりもフランスを愛し、「私は音楽よりフランスが大切だ」とまで発言した彼ですが、ワーグナーをはじめとするドイツの作曲家への傾倒ぶりが批判され、国内での評価は失墜。
    かと思うと、ワーグナーについての発言で、今度はドイツ国民から大バッシングを受け、演奏をボイコットされてしまうのです。
    愛する祖国に留まることをやめ、世界中を転々とする晩年。
    しかし彼は、正直な発言、自分の思う通りの生き方を、生涯手放すことはありませんでした。
    誰に何を言われても、自分のルールを守り切ったのです。
    「フランスのベートーヴェン」と呼ばれたレジェンド、カミーユ・サン=サーンスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 福井県小浜市にゆかりのある、『解体新書』で有名な蘭方医がいます。
    杉田玄白(すぎた・げんぱく)。
    蘭方医とは、江戸時代に西洋医学を学んだ日本人医師のこと。
    若狭国小浜藩の、藩専任の医者だった父の影響で、幼くして医学が身近にあった玄白にとっての最大の関心事は、人体の中身でした。
    当時は、中国から伝わった漢方が主流。
    人間には五臓六腑があり、それらの調子が悪くなれば、煎じ薬で治すという考えが王道でした。
    あくまで人間の外、表面を診断し、処方する。
    しかし、初めて、腑分け、すなわち「解剖」に立ち会った玄白は、愕然とするのです。
    「書物にある五臓六腑とは、全然違うじゃないか!
    そもそも人間の体の仕組みがわからなくて、どうして病と闘えるというんだ!」
    中国伝来の医学書と違い、オランダ語で書かれた、『ターヘル・アナトミア』という本の解剖図は、見事に人間の内臓、骨格、筋肉までもが示されていました。
    「これだ! この本だ!
    これを翻訳して全国の医者や学者に読ませないと、日本の医学は、間違った方向に進んでしまう!」
    玄白は、同じ漢方医の前野良沢(まえの・りょうたく)、中川淳庵(なかがわ・じゅんあん)らと共に、『ターヘル・アナトミア』の翻訳に着手するのです。
    翻訳は、難航を極めます。
    そもそも、オランダ語がわからない、専門用語も知らない。
    すなわち、オランダ語がわかっても、日本にはその用語がない。
    たとえば、「視聴、言動を司り、かつ痛痒、あるいは感熱を知る」、すなわち「見たり聞いたり、しゃべったり、痛さ 痒さ 熱さを感じるもの」というのは、従来の日本の医学にはない用語でした。
    これを玄白は、まるで神様が持つ器官のようだということで「神経」と名付けました。
    3年5か月をかけて完成した翻訳本、その名は『解体新書』。
    この本をめぐっては、玄白と前野良沢の間で意見が分かれました。
    まだ、この翻訳には不備があると言って出版を嫌がった良沢。
    完全を目指すより、一刻も早くこの本を世に出すべきだと主張する玄白。
    玄白には、遠くの未来より、今、今日が大切だったのです。
    日本の医学に新しい道を切り開いた賢人・杉田玄白が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 福井県出身の、児童福祉の先駆者がいます。
    林歌子(はやし・うたこ)。
    明治時代から、大正、昭和と、社会事業活動に生涯を捧げた歌子の功績は、大きく3つあります。
    ひとつは、アルコール依存症で悩むひとのための禁酒に関する活動。
    2つ目は、女性の人権尊重のもとに遊郭廃止を訴え続けたこと。
    そして3つ目が、孤児院を設立し、恵まれない子どもたちの生活や心のケアのために尽力したこと。
    当時は、男性の慈善活動でさえ、思うように世間に受け入れられなかった時代。
    女性の歌子に至っては、疎んじられるどころか、狂人というレッテルを貼られ、ひどい仕打ちを受けたのです。
    それでも、歌子は、活動を止めませんでした。
    稼いだ金、集めた寄付金は、惜しげもなく、全部、困っているひとのため、慈善活動のために差し出したのです。

    彼女は、特別、強く、清い心を持ったひとだったのでしょうか。
    評論家・小林秀雄の妹で劇作家の、高見澤潤子(たかみざわ・じゅんこ)は、小説『林歌子の生涯 涙とともに蒔くものは』の中で、歌子も、迷い、惑い、葛藤を繰り返す、ひとりの人間に過ぎなかったことを描いています。

    さらに、小橋勝之助(こばし・かつのすけ)、小橋実之助(こばし・じつのすけ)という兄弟との出会いがなければ、歌子の偉業はなかったかもしれません。

    大阪にある彼女の墓石には、こんな言葉が刻まれています。
    「暁の ねざめ静かに祈るなり おのがなすべき 今日のつとめを」
    歌子にとって、なすべきつとめとは「周りのひとを幸せにすること」でした。

    なぜ、彼女はそう考えるようになったのでしょうか。
    幾多の試練を乗り越えたレジェンド・林歌子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 福井県は、恐竜王国として有名ですが、今からおよそ100年前に、世界で初めて恐竜の卵を見つけた探検家の名前をご存知でしょうか。
    ロイ・チャップマン・アンドリュース。
    映画『インディ・ジョーンズ』のモデルとも言われている彼が、恐竜探検隊の隊長として中央アジアに出かけたのは、1922年のことでした。
    それから60年後の1982年、福井県勝山市で、白亜紀前期、1億2千万年前のワニ類化石が発見されました。
    ここから、福井県の恐竜化石発掘の歴史が始まり、日本のおよそ8割の恐竜の化石が、福井県で見つかっています。

    なぜ、福井県で多くの恐竜の化石が発掘されたのか。
    主な理由は、二つです。
    ひとつは、恐竜が生きていた頃に、陸、川や湖などでたまった地層の中でも、骨などが特にたくさんかき集められた部分、いわゆる「ボーンベッド」を発見することができたこと。
    化石が出やすい、「手取層群」が広く分布していたのです。
    さらに、福井県が早くから大規模で集中的な発掘を粘り強く続けてきたことも、大きな要因としてあげられます。
    福井駅西口に降り立てば、たくさんの恐竜の動くモニュメントが出迎えてくれます。

    子どもから大人までロマンを感じる恐竜の世界に魅かれ、探検に一生を捧げた男、ロイ・チャップマン・アンドリュースは、映画のように、クジラ、オオカミ、盗賊に襲われ、危機一髪でまぬがれてきました。
    どんなに危険な目にあっても、探検をやめることはありませんでした。
    彼は、好きだったのです。
    未知の世界に出会うことが。
    そして、新しい自分を発見することが。
    アンドリュースは、「冒険」という言葉を嫌いました。
    「大切なのは、準備。探検には準備が必要だ。でも、冒険には往々にして準備がない」
    大胆であり、繊細。
    そこに探検家としての矜持があったのです。
    恐竜の生態をひもとく扉を最初に開いた賢人、ロイ・チャップマン・アンドリュースが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年、没後80年を迎える、世紀末の画家がいます。
    エドヴァルド・ムンク。
    名画『叫び』で世界的に有名な、ノルウェー出身のムンクは、幼い頃から身内の死を経験し、内省的で孤独。
    内にこもるような印象がありますが、実は類まれなる、挑戦のひとでもありました。

    それは、『叫び』を画く一年前、1892年11月の出来事。
    ムンクは、ドイツ・ベルリン芸術協会から、「個展を開きませんか」という招待を受けました。
    パリで学んだ印象派の呪縛に苦しみ、自分の画風を模索していた29歳のムンクにとって、それは新しい作品に挑戦する最高のチャンスでした。
    文字通り、寝食を忘れ、制作に没頭。
    油彩55点を画き上げ、ベルリンに乗り込んだのです。
    のちに「愛のシリーズ」と呼ばれる、『窓辺の接吻』や『愛と痛み』などの作品群は、人間の内面を真摯に描き切った自信作でした。
    しかし、世紀末の暗さや、抽象的で難解な作風は、保守的なベルリンの批評家たちには理解されず、皇帝ウィルヘルムもこれらを認めず、新聞記者たちは、ムンクを「芸術を毒殺するもの」と揶揄したのです。

    展覧会は、わずか一週間で打ち切り。
    前代未聞の事件は、「ムンク・スキャンダル」として、世界中のマスコミが取り上げました。
    まわりの心無い言葉に、人一倍繊細なムンクは、ひどく傷つきましたが、画くことを諦めたりしませんでした。
    それどころか、翌年、最高傑作『叫び』を世に送り出すのです。
    彼は、誹謗中傷の嵐の中、自分が描くべき主題を見つけました。
    それは、『愛』。
    暗く、病んだような画風に思えますが、彼が最も描きたかったのは、愛、そして表層的ではない人間の強さ、だったのです。
    誰に何を言われても、一つの作品を何度も書き直し、自分が信じた道を突き進んだレジェンド、エドヴァルド・ムンクが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年、デビュー60周年を迎える、イングランド出身のカリスマ・ロック・ミュージシャンがいます。
    デヴィッド・ボウイ。
    1964年、広告会社で会社員をしていたボウイは、ひそかに音楽シーンで名をなすことを夢見て、実業家、ジョン・ブルームに手紙を書きます。
    「ブライアン・エプスタインがビートルズにしたことを、僕たちにしてみませんか?」
    ブルームは、自宅のパーティに、当時、ボウイが所属していたバンド「デイヴィー・ジョーンズ&ザ・キング・ビーズ」を呼びました。
    デイヴィー・ジョーンズとは、芸名ボウイを名乗る前の彼の名前。
    このパーティでの演奏がきっかけで、同年6月5日、デビューシングル『リザ・ジェーン』が発売されました。
    翌年、きっぱり会社を辞めてしまうのですが、このシングルがさっぱり売れません。
    ちなみに、2年前に発売されたビートルズのデビュー曲『ラヴ・ミー・ドゥ』は、ミュージックウィーク誌トップ50で最高位17位を記録。
    翌年のシングル『プリーズ・プリーズ・ミー』は、メロディメーカー誌シングルトップ50で、1位を獲得しています。

    ボウイがシングルを出しても、全く売れない時期が続きます。
    挙句の果て、同じ名前のデイヴィー・ジョーンズという名のボーカルが、アメリカで大ブレイク。
    そのバンドの名は、モンキーズでした。

    名前を変えることを余儀なくされた彼は、1966年、デヴィッド・ボウイを名乗ることにします。
    ボウイとは、アメリカの開拓者、ジェームズ・ボウイ。
    彼は、テキサスの独立のために戦い抜いた英雄でした。
    荒ぶる魂を抱え、ナイフを持ち歩く様は、敵を恐れさせたと言われ、彼が愛用したナイフは、ボウイ・ナイフと呼ばれました。
    開拓者、それこそ、デヴィッド・ボウイが目指した姿だったのです。
    ジョン・レノン、坂本龍一にも愛された伝説のロックスター、デヴィッド・ボウイが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年、生誕190年を迎える、世界的に有名なテキスタイル・デザイナーのレジェンドがいます。
    ウィリアム・モリス。
    その名を知らなくても、彼がデザインした「いちご泥棒」を一度は目にしたことがあるかもしれません。
    木々が生い茂る深い森を背景に描かれる、鳥といちご。
    日本人にも大人気のこの作品には、モリスの思いが色濃く、凝縮されています。
    彼が活動した19世紀のイギリスは、産業革命以後の華々しい技術革新と、工場の乱立。
    大量生産、大量消費に経済はうるおい、人々は、表面上、便利で快適な暮らしを手に入れました。
    しかし、内面はどうでしょう。
    あふれかえる物質にスペースを奪われ、深く息をすることすら忘れる毎日をおくっていたのです。
    モリスは、幼い頃見た風景を思い出しました。
    神秘的な森。
    そこには、解き明かされない秘密があり、ロマンがあり、未知への探求心がありました。
    煌々と照らされる電気により、全てが明らかに映し出される生活の中にこそ、「不思議な世界」が必要であると彼は説いたのです。
    大量生産による質の低下を恐れたモリスは、手仕事の刺繍や、手作りの椅子や調度品の復興を願いました。
    「生活の中にこそ、芸術は必要だ」
    そんな強い信念のもと、デザイナーに留まらず、詩を書き、社会主義活動に尽力し、世界をより豊かにするために、一生を捧げたのです。
    迷ったときは、いつも幼い頃愛した森を想起しました。
    ひとは、幼少期に見た原風景に癒され、守られる、そう信じていたのです。
    モダンデザインの父、ウィリアム・モリスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?