Episodios
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那珂川市の中原というところに空海の伝説を伝える大徳寺があります。
空海は遣唐使として中国に渡った人で知られていますが、帰国後大宰府の観世音寺におよそ2年間程住んでいました。
この間、中原の大徳寺も訪ねてきています。
その際、空海はこの寺に残していったものが今もあります。
その大徳寺を歩きます。
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四王寺山の大野城跡歩きは標高354メートルの大原山付近まで歩きました。
反時計回りに尾根を歩いて、丁度半分程回った感じです。
大野城跡には70棟を越える礎石群があります。
尾花地区には焼米ヶ原という炭化した米も観測されていました。
建物は高床式の倉庫で、食料の備蓄や武器の検収のために設けられていたということでした。
大原山付近には鬼のこしかけ石という伝説をもった岩もありました。
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¿Faltan episodios?
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尾根を歩いて気がつくのが石仏が尾根沿いに建っていること。
四王寺山には三十三ヶ所にあるそうです。
調べてみますと、圧倒的に多いのが千手観音菩薩像で、あとは如意輪観音菩薩像、罵頭観音菩薩像といったところでした。
建立されたのが江戸時代後期だそうで、福岡城下町の大火や天然痘の流行などの転変地異に対し、観音様の御利益にすがる気持ちで建立されたんだとか。
こういった仏像をめぐって歩くのも別の楽しみがありそうです。
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新年1回目は大野城跡歩きをお休みいただき、大野城市にある善一田古墳を歩きます。
この古墳は6世紀後半~7世紀の約100年間に造られた古墳群です。
およそ4代、100年ほど続いた古墳です。
6世紀中頃に乙金山麓にいた開拓者の集団の墓ではないかとみられています。
副葬品には新羅系の土器が数多くみられ、新羅との交流に関わった人々の存在がみられるようです。
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尾根伝いに大野城跡の土塁を歩きます。
大野城は665年に築城されました。これは白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に破れた日本が防衛体制を整えるために664年に大宰府に水城を築き、その翌年の665年に築いたものです。
尾根を歩いてみますと、予想以上に起伏がはげしく、礎石や石塁で守りを固め、容易に城の中へ入れないのが分かります。
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四王寺山にやってきたのは、この山にある大野城跡をつぶさに見て歩くためです。
大野城が築かれたのは、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れ、その結果日本防衛の為に築かれた山城です。
大野城は尾根沿いに約八キロの土塁や石塁をめぐらせたものです。
そして、その中に食料などを入れる建物を造りました。その建物の跡の礎石が数多く残っています。
その尾根に沿って見ていきます。
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大宰府政庁跡を出発し、四王寺山の入り口まで歩きました。
四王寺山は、かつては大野山と呼ばれていました。
山上憶良が詠んだ歌として「大野山霧立ちわたるわが嘆くおきその風に霧立ちわたる」と万葉集にはみえます。
その後、大城山(おおぎやま)、四王寺山と時代の変遷と共に変わってきています。
その四王寺山の登山口までやってきました。
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太宰府政庁の背後に見える山、四王寺山は太宰府市、大野城市、宇美町にまたがる山ですが、ここには古代の山城、大野城があったところです。
高さ410メートルのなだらか山ですが、ここにはいろんな歴史の跡があります。
その歴史をたずねて歩きます。
御案内を古都太宰府保存協会の学芸員、田中健一さんにお願いしています
出発は大宰府政庁跡からです。
令和ゆかりの神社といわれる坂本八幡宮にお参りしたあと登山口をめざします。
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相島には石だけで造った古墳、積石塚と呼ばれる古墳があります。その数254基といいますから、大変な数です。
島の南部にあって宗像の方角を向いたところにあります。一体どのような人が埋葬されたのか、安曇族と関係があるのか、ないのか未だに不明のままです。
この島にあるのが若宮神社。豊玉姫命、玉依姫命がまつられています。
境内には「ゆずかずら」という神木があり、島にはこの木の葉を安産のお守りとして持つ風習があるとか。
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可也山の麓、引津湾の近くのある西林寺にまつわる話です。
立派な仏像があるということを聞き寺を訪ねました。
門前に小さなやせた猫がこちらを振り向きもせず木の実を夢中で食べていました。
寺の中には平安時代後期の恵心僧都の作といわれる阿弥陀如来座像がありました。
立派な仏像に圧倒されました。見学を終わり寺の外にでますと、先程の猫がこちらをじっと見つめています。
顔をよくみますと、これが猫ではなく、狸だったので驚きました。
今回は狸の話ではなく、この見事な仏像にまつわる話です。
※写真は西林寺の仏像です。
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今回は伊都国歴史博物館で開かれている「吉備と伊都国展」(10月24日まで開催)から。
吉備の範囲は、岡山県と広島県の東部です。
岡山県といいますと、邪馬台国ファンにとっは、もしかして投馬国があったのでは、という非常に興味をひくところです。
その中心となっている遺跡が盾築墳丘墓といわれる遺跡です。
墳丘の大きさも80メートルを超え、王墓があったのではみられています。
そういった特別展を紹介しています。
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糸島に標高805メートルの美しい山浮嶽があります。この山は海上からもよく見えるところから、糸島をめざしてやってくる船のランドマークにもなっています。
この浮嶽の中腹にある浮嶽神社には幹回りが5メートルもある見事な銀杏の木がありますし、さらに神社の収蔵庫には九州で一番古いのでは、と見られる4体の仏像があります。そして、神社の扁額をよく見ますと、鷹が彫ってあるのです。
この神社の近くにもたくさんの伝説が伝わっています。
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糸島半島の東の玄関口、福岡市西区の千里にある三所神社のすぐ近くにある縦2メートル、横1.8メートルの岩にまつわる話。
ある年の大晦日のこと、ごう音と共に大きな岩が村に落ちてきます。
村は大騒ぎになり、神占いをすると神意で千里離れた高麗から飛んできた岩だということになります。
そこで、村では粗末な扱いをしてはいけないことになり、岩に締め縄を張って祀ることになります。
お陰で村では正月の注連飾りの準備も全くできなかったとか。
この地区にはこの習慣がいまでも残っていて正月のしめ飾りはしない家が多いそうです
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この程、糸島の引津湾に万葉集の歌に出てくる植物を栽培する万葉の里植物園が開園しました。
といっても、これから三年計画で植えていくということで、先ずは土づくりからということで、万葉集に出てくる花が見られるのは来年からになりそうです。
糸島には万葉集にでている植物が60種類くらいあるそうですが、その植物がこの地に適しているかどうかを探るのも大変だとか。
何しろ海のすぐ側の畑ですから潮風対策が一番苦労するそうです。
来年の春、どんな花が見られか楽しみです。
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安曇族の長である安曇磯良は大川市の風浪宮の初代宮司となりますが、磯良は高良山とも関係が深いといわれます。
磯良は神功皇后に仕え、朝鮮出兵では水先案内したり、神功皇后の手足となって大活躍します。
その功績で、神功皇后は高良山の支配権を磯良に与えたといいます。
当時、高良山では胴が採れていたそうですから大変な支配権です。
古代でも、船代や軍備費は必要だったようで、住吉族には水田~裂田の溝を与えたのだそうです。
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風浪宮には大変ユニークな神事がありました。
それは4月に行われる火清鳴弦御祈祷(ひきめん・ごきとう)という神事。
弓の弦を鳴らして氏子を清める神事です。
これは神功皇后が朝鮮から帰国されてお産に入りますが、難産だったため、悪霊を慰めるために弓で音を鳴らし、悪霊を退散させ、無事に出産させたとったことがあり、
こういった神事が残っているということでした。
大変貴重な神事です。
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4月から9月までは安曇族の足跡を訪ね信州を歩きました。シーズン10に入りました。
今回はその続きで福岡を歩きます。
阿曇族の長である阿曇の磯良の足跡を追跡します。
大川市に風浪宮があります。ここの神社は磯良が神功皇后と共に朝鮮出兵から帰還の際、嵐に遭遇、流れ着いた場所です。
白鷺に導かれた場所に神社を作り、その初代の宮司になったのが磯良です。
神社の近くには磯良の墓だとみられる大きな石蓋をもった磯良塚がありました。
※写真は磯良ツカ
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新潟県の妙高山の近くに関山神社はあります。ここには秘仏といわれる仏像があります。
その仏像は番組で紹介した安曇族が持ち込んだとみられる二つの仏像(対馬の浄林寺の仏像と安曇野の観松院の仏像)に似ている仏像がここにある、というので訪ねました。
しかし、秘仏ですから寺の奥深くにしまわれ、数年に一度しか顔を見せてくれないのです。
そこで、二つの像の写真を寺の総代と地元の仏像研究者に見せ、話を伺ったところ百済で作られて日本に持ち込まれたとみられること、大きさ、形、など共通点が多く、同じ頃、百済で作られたものだろうという話でした。
しかし、寺に持ち込んだのが安曇族かどうかは不明で、現在は渡来人がもちこんだのでは、という結論だということでした。
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安曇族は新潟県の糸魚川から塩の道である千国街道を通り、安曇野をめざしたとみられています。
このルートは塩を運んだ道であり、日本海の産物を運んだ道でもあり、そして、糸魚川のヒスイを運んだ道とも見られています。さらに運搬に携わったのは安曇族かもしれません。
安曇族は海を渡る技術をもっていました。朝鮮半島との交易に携わり、ヒスイも朝鮮半島の国々に運び、その代わり鉄を我が国に持ち込んだのでは、というのが今週の話です。
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新潟県糸魚川はヒスイの産出地として知られる場所です。
市内中心地から車で10分ほど 高台に上ったところに、縄文時代にヒスイ製品を作っていた加工工房がありました。長者ヶ原遺跡といいます。
標高90メートル、日本海から2.5㎞ほど入った場所にありました。
今から約5000年~4000年前の遺跡です。
初めは大珠という直径5センチを越える大きな玉を作って、これに穴をあけ装身具として作っていたそうです。
時代と共に形も小さくなり、勾玉などへ変わったいったのです。
遺跡には茅葺きの屋根をもった縄文時代の住居が2~3棟再現されていました。
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